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第413回 考えるきっかけ 〜 自分を掘り下げる 〜

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 2024年6月29日、【古河はなももカフェ】の代表の三橋惠子氏の企画で、茨城県古河市の【『古河がん哲学外来カフェ合同講演会: がん哲学について』(主催:古河の3つのカフェの合同:『古河はなももカフェ』、『古河そうわカフェ』、『古河きぼうのカフェ』】(古河教会に於いて)に赴いた。 栃木県、千葉県からの参加者もあり 多数の聴講者であった。 大いに感激した。 【先生のご著書『がんと聖書』(イーグレープ発行2020年)が届き早速読ませて頂きました。2つがとても印象的でした】との励ましのコメントを頂いた。   第1部『聖書とがん』 第1章『神はがんをも創られた』の『神は愛』(24〜26ページ)【『神は癌をも作られた』、というティリッヒの言葉について、三浦綾子さんが書かれたところです。 神を信ずるものにとっては、『神は愛』なのである。 その愛なる神様が癌をつくられたとしたら、その癌は人間にとって必ずしも悪いものとは言えないのではないか(神のくださるものに、悪いものはない)。 私は徹底的に病に苦しまれた三浦綾子の言葉にとても重い真実なものを感じました。】  第3部『心に花咲く』(145〜203ページ)【心に咲く花会とは・・・『心に咲く花』それは誰の心にも咲く花。 人生いつでも咲いているわけでない、それでもいつかは咲く。 沈み込んだ地中が深ければ深いほど、その花は凛と美しい。 そんな種を見つけ、大事に育てていこうというのが、この会です。―― がんカフェの持ち方の根底にいつも持っていたいです。 まだまだ知らないこと、理解できないことが、たくさんあります。これからもお教えください。】  【『がん哲学外来入門』(毎日新聞社発行 2009年)の序章の言葉:がんを自分の生を考えるきっかけととらえる ー 最も必要なのは、--、自分を掘り下げる哲学---。 とても分かりやすいと思いました。 先生から教えて頂き、私自身の体験と重なりました。】とのコメントも頂いた。 会場では、多数の質問もあり感動した。 終了後『3つのカフェ』のスタッフと懇親会の時を持った。 大変有意義な貴重な充実した『古河の旅』となった。 ただただ感謝である。

第412回 『本質的な見直し』 〜 目的は高い理想に置き、到達する道は臨機応変に 〜

 2024年6月24日、新渡戸稲造記念センター in 新渡戸記念中野総合病院(中野区中野)から、恵泉女学園 (世田谷区の経堂)の理事会に向かった。 恵泉女学園の食堂で昼食をした。 食堂で、多数の生徒が 友達と楽しく 会話しながら食事をしている姿を拝見し 大いに感激した。  女子教育に 大いなる理解を示した新渡戸稲造(1862~1933:東京女子大学 初代学長)が、河井道(1877~1953:恵泉女学園 創立者)、津田梅子(1864~1929:女子英學塾 創立者)、安井てつ(1870~1945:東京女子大学 第2代学長)を援護した三人に共通するのは『種を蒔く人になりなさい』の実践であろう。  筆者は、2021年7月1日、新渡戸稲造から学んだ河井道が、初代学園長である恵泉女学園(創立1929年)の9代目理事長を拝命した。 新渡戸稲造の『優雅な感情を養うは、他人の苦痛に対する思いやりを生む。しかして他人の感情を尊敬することから生ずる謙遜・慇懃(いんぎん)の心は礼の根本をなす』が鮮明に蘇って来たものである。  河井道は自著『わたしのランターン』の終わりに『時がくると、それは別の手へとひき継がれて、さらに先へと運ばれていくであろう。』と記述している。『恵泉の未来を語る会』が立ち上がる予感がする。  『目的は高い理想に置き、それに到達する道は臨機応変に取るべし』(新渡戸稲造)、『古いものには、まだ再活用される要素があるのである』(内村鑑三:1861~1930)の教訓が今に生きる。 医学生、病理医 時代の読書遍歴は、内村鑑三・新渡戸稲造・南原繁(1889~1974)・矢内原忠雄 (1893~1961) の著書であった。思えば、『人生邂逅=非連続性の連続性』である。  『すべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています』(ローマ人への手紙8章28節)の体験である。  まさに『本質的な人間教育の見直しの時代的到来』であろう。

第411回 『社会貢献の羅針盤』 〜 自由にして勇気ある行動 〜

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 2024年6月22日は、Zoom方式による『南原繁研究会』である。 今回の読書会は、秋間修事務局長による【南原繁著作集第二巻(発行;岩波書店)『フィヒテの政治哲学』第⼆部『フィヒテ政治理論の発展』第⼆章 社会主義の理論(pp.228-301):緒⾔/社会主義の基礎概念/社会主義国家の構造/現代社会主義との関係】の箇所である。 本当に日々、勉強である。  筆者は 2019年に『南原繁研究会代表の挨拶』として 下記の如く述べた。 【2004年にスタートした南原繁研究会 《初代代表、鴨下重彦 先生(1934年-2011年、東京大学名誉教授、国立国際医療センター名誉総長)、第2代代表、加藤 節 先生(成蹊大学名誉教授)》の3代目の代表を、この度、南原繁 生誕130周年を祝し、仰せつかりました。  思えば、私に強い印象を与えた言葉は、『ボーイズ・ビー・アンビシャス』(Boys, be ambitious) です。札幌農学校を率いたウィリアム・クラーク(1826-1886)が、その地を去るに臨んで、馬上から学生に向かって叫んだと伝えられている言葉です。クラーク精神を、内村鑑三(1861-1930)、新渡戸稲造(1862-1933)、南原繁(1889-1974)、矢内原忠雄(1893-1961)から静かに、学んできたものです。  南原繁は、戦後最初の東大総長で、『明治以降、新渡戸稲造先生に勝る教養と広さの人はいない』、『教育というのは、全てものを忘れた後に残る』と語っています。私の恩師は、南原繁が、東大総長のときの医学部の学生でした。『スケールの大きい、愛情豊かな人物だった』と、南原繁の話をよく聞きました。『時代を動かすリーダーの清々しい胆力』としての『人間の知恵と洞察とともに、自由にして勇気ある行動』の持ち主であった南原繁が思い出される 今日この頃です。『はしるべき行程』と『見据える勇気』は、『次世代の社会貢献』の羅針盤ではないでしょうか。 人知を超えて、時が進んでいることを痛感する日々です。まさに、『今、ふたたび南原繁』の歴史的到来が必要ではないでしょうか!】と記述した。

第410回 『見えざる手の導き』 〜 『不思議な人生体験の連続』 〜

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 2024年6月18日は東京は大雨であった。 急遽 大学の委員会出席を自宅でのZoom参加に変更したが、何故かZoomにアクセスが出来なく困惑した。 アメリカ ワシントン州に住む娘家族を訪問しているwifeから『Lake Chelanシエラン湖』の写真が送られて来た(日本時間:23:52)。『ワシントン州の魅力的な観光地であるシェラン湖(Lake Chelan)周辺の地域は、― 絵のように美しい風景で知られています。― カスケード山脈(Cascade Mountains)に囲まれたこの美しい場所』と謳われている。 筆者も7月にアメリカ訪問する予定である。  6月19日は評議員を務める『宮川庚子記念研究財団』に赴く。『肝炎ウイルスに起因する肝炎・肝癌の研究の企画推進を図る事を通じて、国内外の学術団体との交流を図り、肝炎・肝癌研究者への助成、肝炎・肝癌の診断、予防及び治療に関する知識の普及等を実施して、肝炎・肝癌の撲滅を企図する。』とある。  想えば、筆者は、医学部を卒業して、癌研で研究をスタートした。 米国アインシュタイン医科大学肝臓研究センター(ニューヨーク) 留学の時(1984-1985)が与えられた。 その時の研究テーマは『化学物質による化学肝発がん、B型肝炎ウイルス(HBV)によるウイルス肝発がん機構』であった。 発がん研究は、山極勝三郎 (1863-1930) の『人工発がん』(1915)、吉田富三 (1903-1973) の『肝がん創成』(1932)と日本国は世界的な業績がある。 『日本は化学発がんの創始国』である。 20世紀は『がんを作る』時代であった。 21世紀は『がんを遅らせる研究』で再び、日本は世界に貢献する時ではなかろうか!   さらに米国フォクスチェース癌センター(フィラデルフィア)の留学時代(1989-1991)に『遺伝性がんの父:Knudson博士』との出会いが与えられ『遺伝性がん研究』へと進み、その流れから発見した遺伝子が『アスベスト・中皮腫研究』へと思わぬ展開となり、時代の要請として2005年、順天堂大学で本邦初の『アスベスト・中皮腫外来開設』となった。 そのことが2008年の『がん哲学外来開設』に繋がるとは、自分の思いを超えた まさに『見えざる手の導き』を実感する日々でもある。 本当に『不思議な人生体験の連続』である。

第409回 『授業の心得』 〜 『丁寧な大局観』 〜

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 2024年6月12日は、順天堂大学保健医療学部 診療放射線学科2年生の授業『病理学概論』(13:10〜14:40)、『がん医療科学』の授業(14:50〜16:20) 、【順天堂大学大学院修士課程(医科学コース)『がんと遺伝子』】の授業(19:45〜21:15)の『3連ちゃん症候群』の1日である。 【『病理学概論』では、教科書『カラーで学べる病理学』(Nouvelle Hirokawa 発行)を、『がん医療科学』では、テキスト『がん細胞から学んだ生き方 〜 「ほっとけ 気にするな」のがん哲学』(へるす出版)】を用いて 受講者に音読をしてもらい、質問を受けながら進める。【『がんと遺伝子』】の講義は、今回は、『環境因子とがん』をテーマとする。   筆者の『授業の心得』は、【『病理学の根幹を追求』&『俯瞰的に物事を総合的に見る人物の育成』】である。 まさに、『教育理念』を復習する時でもある。 『授業の心得 2か条』 1.   マクロとミクロの両方の視点をもち、知識や真実、自然や人生の意味を問う。 2.『森を見て木の皮まで』診る、マクロからミクロまでの手順を踏んだ『丁寧な大局観』を獲得する『厳粛な訓練』。 『教育の理念 3か条』 1.  世界の動向を見極めつつ歴史を通して今を見通せるようになる。 2.俯瞰的に理を理解し『理念を持って現実に向かい、現実の中に理念』を問う人材となる。 3.複眼の思考を持ち、視野狭窄にならず、教養を深め、時代を読む『具眼の士』の種蒔く人材となる。

第408回 『よく』生きることの意味 〜 自分を掘り下げる哲学 〜

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 2024年6月7日 病理組織診断業務に赴いた。筆者は、医師となり25歳(1979年)から癌研で毎日 顕微鏡で細胞を診て、病理組織診断と病理解剖に専念したものである。『細胞と組織と器官(臓器)と身体』は、病理医の原点である。【『マクロからミクロ』&『ミクロからマクロ』&『森を見て木の皮まで見る』=『丁寧な観察力の修練』】でもある。  筆者は、2008年9月3日発行小学館『がん哲学外来の話 〜 殺到した患者と家族が笑顔を取り戻す 〜』の『まえがきにかえて』で、下記を記述した。 【2008年1月、順天堂大学医学部附属順天堂医院が『がん哲学外来』という特別外来を開設しました。『医師と患者が対等の立場でがんについて語り合う場』として、電話予約制・無料で行なったものです。―― 3ヶ月間にもわたった1日4~8組・計5日はすぐに埋まり、キャンセル待ちは約50組にのぼりました。――『がん哲学外来』を考える直接のきっかけは、2005年にアスベスト被害が表面化した『クボタ・ショック』でした。―― 急遽、『アスベスト・中皮腫外来』を立ち上げ、3ヶ月間外来に出ました。―― 病理学者として『今すぐにでもできること』はないか ―― それこそが『がん哲学外来』だったのです。 診療ではなく、セカンド・オピニオンでもなく、がん相談や心理カウンセリングとも違う。『がん哲学外来』は日本のがん医療に足りないもの、気づいていない『何か』を埋める『すき間サイエンス』であり、がん医療改革のための『場の設定』なのです。】  2009年3月30日発行 毎日新聞社『がん哲学外来入門』の序章【はじめに】では、【がんを自分の生を考えるきっかけととらえる ―― 自らの中にできたがんという細胞と対話することによって、『よく』生きることの意味を問う ―― がんの闘病生活を送っている人、とりわけ治る可能性が低いと宣告された人に最も必要なのは、慰めや励ましの言葉ではなく、自分を掘り下げる哲学なのではないでしょうか。そんな思いから『がん哲学』は生まれました。この言葉をきっかけに、がんという病気のこと、生と死について、医療の在り方など、さまざまな議論のきっかけになればと願っています。】と記載している。

第407回 【Medical Villageの原点】 〜 『1人の人間を癒すには1つの村が必要』 〜

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 2024年6月2日 第8回医療部講演会(東京都清瀬市救世軍清瀬病院敷地内 救世軍清瀬⼩隊)で、筆者は講演【病むこと ⽼いること 『対話と寄り添い』】の機会が与えられた。多数の参加者であった。大いに感動した。  早速、『東久留米がん哲学外来』に毎回参加されている『東久留米3美女姉妹』からは、【『今日の講演会ではありがとうございました。 緑豊かな会場で、とても充実した暖かいひとときに参加させて頂き感謝です。 人と人との出会い、繋がりを改めて思います。』 & 『今日はありがとうございました。 樋野先生のお話を伺っている時、会場があたたかい雰囲気に包まれていると感じました。 ありがとうございました。』 & 『今日は楽しいひと時を ご一緒できありがとうございました。『東久留米3美女姉妹』という素晴らしい名前を頂き照れくさいですが心は躍っています。 素晴らしい講演会 そして 『するめ症候群』を体験する時間でもありました。感謝します。』】との心温まるお言葉を頂いた。  また、主催者の野口恵子チャプレンからは、【今日は、救世軍清瀬病院のために、お時間をいただき、そして、貴重なご講演を賜り、誠に感謝申し上げます。 樋野先生の著書や対話で、医療者より、市民の皆さんのほうが、対話や寄り添うということについて、哲学をお持ちだったように感じております。 あの後の振り返りで、病院のスタッフたちのほうが、沢山のことを学んだようでした。『馬から下を眺めるところから、降りて対話する』ことを、スタッフたちが学べ、真のケア者、真の医療者への一歩目を踏み出したようなお時間だった気がいたしました。 本当に、素敵なお時間に招いてくださり、ありがとうございます。『清瀬 Medical Town (Village)』、祈っていきたいと思います。】との励ましのメールを頂いた。  筆者の【Medical Villageの原点】は、【『1人の人間を癒すには1つの村が必要』、『病気であっても病人ではない』、『病気は単なる個性である』の3つの柱に、Medical Village実現に向け「医療維新」の舵取りを行う。】である。 まさに『清瀬 Medical Town (Village)』の時代的到来であろう!