投稿

11月, 2020の投稿を表示しています

第174回 「今こそ居場所を求めて」〜 「常識の中の真理」 〜

イメージ
 2016年11月より開設された 「小江戸がん哲学外来」(埼玉医科大学総合医療センターブレストケア科於いて)に赴いた。『2016年11月より埼玉医科大学総合医療センター ブレストケア科に、「がん哲学外来」を開設しました。がんになったとき、再発したとき、 あるいは病気が悪化したとき、死への不安が突然間近に迫ってきます。 そして 今後どうしたらよいか、どう生きたらよいのか、道がみえなく なってしまいます。そのようなとき、医療者が十分に向き合って手を 差し伸べられることが理想だと考えています。「がん哲学外来」は、”対話 ”によって 生きることの根源的な意味を考え、ご自身の人生を 自分らしく生きていただくために行う支援の1つです。 乳がんに限らず、その他のがんや病気で悩む方も 受診可能です。』と謳われている。開始前には、病理学講座の先生と、食堂で、昼食の時を持った。その後、「医療福祉相談室・がん相談支援センター」のスタッフの方との対談の時をもった。また、「小江戸がん哲学外来」も同席された。 大変有意義な時であった。 来年は、5周年記念が企画される予感がする。  翌日は、『がん哲学外来@川越のぞみカフェ 開設5周年記念シンポジウム〜「今こそ居場所を求めて」〜』(川越のぞみ教会に於いて)で、講演の機会が与えられた。「のぞみカフェは開設5周年を記念するシンポジウムを、樋野興夫先生を特別ゲストとして迎えて開催いたします。 コロナ禍の中で奪われ、同時に見えてくるものは、これまでも病の中で見えてきたものにも 通じるのかもしれません。 今年は、自宅でも会場でも参加可能です。 共に語り合うひと時をご一緒しませんか。」と チラシには記載されていた。 大変貴重な時が与えられた。  今日(2020年11月27日)は、定例の「柏がん哲学外来」(柏地域医療連携センターに於いて)に向かった。『「がんの悩みを 病院の外で 心おきなく話したい」— がん哲学外来は、がん患者、経験者、ご家族のための対話の場です。 樋野興夫先生と ゆっくり語り合ってみませんか?』と紹介されている。1組 約60分 3組の面談を終了後、スタッフの皆様と昼食会の時を持った。 皆様の真摯な、熱意には、ただただ感服である。 「がん哲学外来」を通して、「常識の中の真理」を学ぶ日々である。

第173回 「石段を登る」〜 自分の身長が 伸びた 〜

イメージ
 2020 年 11 月 15 日、 成田教会での『 奨励 : 「種を蒔く人になる」』に赴いた。   成田教会 70 周年記念誌を頂いた。 表紙の「丘の上の教会」の絵(種田陽平 氏 作品)には、大いに感動した。    スタッフの方と 有意義な昼食の時が与えられた。 「成田 石段 がん哲学外来・カフェ」が開設される予感がする。 筆者にとって、「石段を登る」とは「自分の身長が 伸びた」と感じた 若き日の体験が蘇る。 「樋野動物園」に、「柴犬 & 三毛猫 & 下町の叔母さん象 」として入所 も決定された。 早速 、『偉大なるお節介症候群 認定証』も授与された。   貴殿は以下の診断基準を満たしたため、ここに認定いたします。 一、暇げな風貌 二、偉大なるお節介 三、速効性と英断   と『偉大なるお節介症候群 認定証』には 謳われている。   昼食後、成田の「表参道」を散策し、「 成田山新勝寺」の前を通った。   まさに、『教会でも、お寺でも がん哲学外来 を始めよう!』の歴史的到来 ではなかろうか!   この度『 🐈 と 🐒 』 { 『樋野動物園」1周年記念誌 〜 個性と多様性 〜』(『樋野動物園』出版局 発行)を参照 } が 、英語論文『 The Effectiveness of Peer Support for Cancer Survivors : Possibility of the activity based on Cancer Philosophy 』を 投稿された。   歴史的快挙である。  丁度、タイミングよく、 今朝( 2020 年 11 月 19 日)『 🦍 』から、「今日は、 World Philosophy Day (世界哲学デー)のようです。  11 月の第 3 木曜日に、祝われるようにユネスコによって宣言とあり、樋野先生がよく話される、ユネスコの前身、国際連盟の下に設立された国際知的協力委員会( ICIC )の、新渡戸稲造の話を思い出しました。 」との 知恵溢れるメールを頂いた。   次は、『 🦍 & 🐼 』 による 英語論文の寄稿ではなかろうか!   論文タイトルは、「『樋野動物園』の時代的要請」で、 論文目的は、『冗談を実現する胆力 = 時代に生きる叡智』であろうか!   そのカー

第172回 『第17回 南原繁シンポジウム』〜 本物の強さ & ブレない人物 〜

イメージ
 昨日(2020年11月11日)『吉田富三記念 福島がん哲学外来』(福島県立医科大学附属病院 がん相談支援センター に於いて)に赴いた。  「福島県出身の世界的病理学者 吉田富三博士を記念して、吉田博士の孫弟子 樋野興夫先生と『福島がん哲学外来』を開設いたしました。 患者さんの思いや日常生活の悩みを受け止め、じっくりと対話する“心の診療室”です。がんにまつわる悩み・不安を持って生きる患者さんと そのご家族の受診をお勧めします。」と病院のHPには紹介されている。  今回も、大変、有意義な充実した個人面談の時であった。  今日(2020年11月12日)は、『がん哲学外来メデイカル・カフェ@よどばし』である。  既に事前に多数の質問が寄せられている。驚きである。  前半講話「樋野先生の徒然なるままに ご自由にお語り下さい」/質問コーナー/ 後半「樋野先生の徒然なるままに ご自由にお語り下さい」のプログラムとのことである。   質問:60代です。私の父は既に他界しましたが、数年父親の看病をしてきました。  ある日、父が、「どうしても家に帰りたい」と言うので、家に連れて帰ったら、自殺未遂をしてしまい、その後、二度と自宅には連れて帰ることができませんでした。・・・。これからの 義理の両親の介護の事を考えると、気が重くて仕方ありません。  どうしたらよかったのでしょうか?  質問:小さい子供がきいてくる「空は何で青いの?」などの、質問に対して、興味・関心を潰さないように、受け答えするには、どう、対応したら良いでしょうか?  質問:私は、学校の教室には『人数が多いから』と、なかなか入れない子どもの 学習指導をマンツーマンでしている者です。  マンツーマンの指導中に、安心しているのか、寝てしまうことが時々あるのですが、どうしたら良いでしょうか?  質問:当分はWithコロナの生活が続くなかで、世界規模で様々なことが変わらざるを得ませんが、アフターコロナにむけて、どう変わっていくとお考えですか?  田舎へ引っ越すとか、家などのローンを組まないとか、これからはネット中心に勉強した方がいいとか、保険診療の制度の見直しとか・・・。  質問:コロナで顔と顔を会わせてコミュニケーションをする大切さに気付きました。でも、体力が落ちてるし、感染するのが心配で・・・「孤独」に苦しんでいます。  どうす

第171回 『第17回 南原繁シンポジウム』〜 本物の強さ & ブレない人物 〜

イメージ
最近話題の「日本学術会議」の『学術の動向』2001年の筆者の原稿 ( https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits1996/6/9/6_9_40/_article/-char/ja ) が送られてきた。  懐かしい思い出である。早速「お写真、お若いですね・・・先生の記述に、日本学術会議と総合科学技術・イノベーション会議の位置づけについて記載があります。  日本学術会議の設置目的、役割を今一度見直し、可視化 願いたいところです。」、{『科学する心』には、『政治にゆがめられた科学する心』と 『政治にゆがめられない科学する心』の2種類がある。  行政機関である 『総合科学技術会議』 は立場上当然、前者である。一方、『日本学術会議』 は、当然後者であるべきである。  もし、後者であることを放棄すれば、『もし塩が塩けをなくしたら......。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、 人々に踏みつけられるだけです』(マタイ5章13節) の運命である。} の文章を読まれ 「現在の学術会議の先生方も 政治家の方々も 上記の内容を肝に銘じて欲しいですね。」との暖かい励ましのメールを頂いた。 第17回 南原繁シンポジウム『日本国憲法と戦後教育改革の過去・現在・未来 〜意義・批判・継承 〜』 シンポジウムに赴いた。   文科省事務次官であった前川喜平氏の基調講演『教育基本法と私』は、大変勉強になった。  パネルディスカッションも、有意義であった。  筆者は、南原繁研究会 代表として、『開会の挨拶』の機会が与えられた。  早速、Zoomでの参加者から 「シンポジウムの記事がアップされました」 と 写真が送られてきた 。  2004年にスタートした南原繁研究会 【初代代表、鴨下重彦 先生(1934年-2011年、東京大学名誉教授、国立国際医療センター名誉総長)、第2代代表、加藤 節 先生(成蹊大学名誉教授)】の3代目の代表を、昨年(2019年)、南原繁(1889〜1974) 生誕130周年を祝し、仰せつかった。 ―― 今年は、新島襄(1843-1890) 没130年、内村鑑三(1861-1930)没90年、新渡戸稲造(1862-1933)国際連盟事務次長就任100周年でもある。  私の恩師は、南原繁が、戦後最初の東大総長のときの医学部の学生であった。  「