第375回 『同好の士』 〜 毅然として、ニューモアに溢れ、心優しく、俯瞰的 〜

 2024年1月14日の、東久留米駅前にあるEast Side カフェで定例の『読書会』に、自治医大時代の鴨下重彦(1934-2011)先生と勤務されていた方が参加された。 2004年にスタートした南原繁(1889-1974)研究会の初代代表は、鴨下重彦先生(東京大学名誉教授、国立国際医療センター名誉総長)である。 筆者は、2019年から3代目の代表を仰せつかっている。

 南原繁の後に東大総長となったのは矢内原忠雄(1893-1961)である。 鴨下重彦先生は、東大総長であった『矢内原忠雄を人生の師』とされ、『内村鑑三(1862-1930)、新渡戸稲造(1862-1933)、南原繁、矢内原忠雄』を語れる小児科医で、筆者にとってのアメリカ時代の恩師であるKnudson(1922-2016)博士(小児科医)と同様に尊敬する『同好の士』であった。 まさに『国手=医師は、直接、間接に国家の命運を担うべしと思うべし』である。

 東大医学部の学生時代に東大総長であった矢内原忠雄に師事された鴨下重彦先生とは、2001年 矢内原忠雄没40周年で、新聞での誌上対談、2004年 南原繁没30周年記念で『南原繁研究会』の立ち上げ、『新渡戸・南原賞』の設立と、傍らで手伝わせて頂いた。 事を始める心得・手順を学んだ。 鴨下重彦先生と筆者は『内村鑑三・新渡戸稲造・南原繁・矢内原忠雄』で結ばれた、世にもまれな師弟関係(小児医学者と病理学者)であったと自負している。『内村鑑三・新渡戸稲造・南原繁・矢内原忠雄』を深く語れる唯一の医学者であったと言っても過言ではない。 理知的で、毅然として、ニューモアに溢れ、心優しく、俯瞰的な大局観のある人物であった。

 1月15日 新渡戸稲造記念センター から、恵泉女学園の学園学校会議に赴いた。 その夜、成田空港からwifeの友人のオーストラリアのご夫婦、息子様、娘様が、我が家に来られ、滞在されている。 1月16日早朝、我が家から『雪の壮大な富士山』を眺められた。 

 wifeと皆様と6人で東久留米駅のインド料理店のルチアで夕食の時を持つ。




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