第347回 『遣島使』 〜 『異分野の交流』 〜

 この度、最新の【島根と全国の掛け橋『遣島使』】の名刺が島根県 政策企画局 広聴広報課より送られて来た。 


 思えば、島根県の出雲大社町鵜峠生まれの筆者を『遣島使』に推薦して下さったのは、今は亡き国立がんセンター総長の杉村 隆(1926-2020)先生であった。 また、『異分野の交流をやれ!』と言われたのは、筆者の癌研時代の恩師で、今は亡き癌研の所長の菅野晴夫(1925-2016)先生であった。 御2人は、山形県の出身で、東大の医学部学生時代の総長は南原繁(1889-1974)であった。 南原繁が尊敬した人物は、新渡戸稲造(1862-1933) 内村鑑三(1861-1930)である。

 杉村隆先生&菅野晴夫先生との出会いから、筆者の人生において『がん学』&『病理学』&『山極勝三郎(1863-1930)・吉田富三(1903-1973)』に繋がった。 また、菅野晴夫先生に、アメリカの『遺伝性がんの父:Knudson(1922-2016)』のもとへの留学を勧められた。 筆者にとって『不思議な人生の邂逅の流れ』である。

 筆者は、今は 廃校となった島根県出雲大社の鵜鷺小学校の卒業式の来賓の挨拶『少年よ、大志を抱け』【1887年札幌農学校のウイリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark、1826-1886)博士の言葉】を 強烈に覚えている。 新島襄(1843-1890)は、アメリカのアーモスト大学を卒業し、日本人初の学位を取得している。 アーモスト大学では、後に札幌農学校教頭となるウイリアム・スミス・クラークから授業を受けた。 ウイリアム・スミス・クラークにとっては最初の日本人学生であり、この縁でクラークは来日することとなった。 1872年、新島襄は、アメリカ訪問中の岩倉使節団と会う。 新島襄の語学力に目をつけた木戸孝允(1833-1877)は、通訳者として使節団に参加させた。 密航者として渡米した新島襄であったが、初代の駐米公使となった森有礼(1847 -1889)によって正式な留学生として認可された。 勝海舟(1823-1899)とも出会っている。

『歴史に学ばなければ、歴史が教えにやって来る』を実感する日々である。


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