第94回 「母の後世への最大遺物」〜 2019年6月3日 96歳で天寿を全う 〜

 


  筆者の母(樋野壽子)が、6月3日午前 5時35分、 島根県 出雲市大社町 鵜峠の自宅に於いて、96歳(1923年2月20 〜 2019年6月3日)で、姉に介護され安らかに大往生した。筆者は、wifeと子供らと、帰郷し、広島の姉家族と6月4日通夜、6月5日葬儀に臨んだ。近隣から多数の参列者であった。葬儀では、筆者は、喪主として、「天寿を全うし、地上の長い旅路を歩み、様々の責任を全うし、召された母に深い敬意を払います」と挨拶をした。今年の5月の連休には、父の7回忌で帰郷した(冒頭)。これが、母との今生の別れとなった。


 筆者の故郷は無医村であり、幼年期、熱を出しては母に背負われて、峠のトンネルを通って、隣の村(鷺浦)の診療所に行った体験が、今でも脳裏に焼き付いている。筆者は、人生3歳にして医者になろうと思ったようである。
 筆者の伯父は、第二次世界大戦で、特攻で戦死した。水戸航空隊へ面会に行った祖父、伊丹飛行場へ不時着し、伯父と母との今生の別れ、そして空を3回旋回して旅立つ姿。しかし、飛行機の故障で、鹿児島に不時着陸し、そこに、面会に行った祖父との今生の別れを、幼い時から、母に毎日のように 聴いて育った。また、実家の裏庭に羽が傷ついたが降り立ち、母は そのに餌を与え育てた。傷が治り、空に旅立ったが、一年後、再び現れ、裏庭の上空を旋回し、一羽を裏庭に落とし、飛び去っていった。母に対する恩返しである。これは、忘れ得ぬ若き日の実話である。まさに「母の後世への最大遺物」である

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